何の為に 人生の座標軸

 普段感じたことを雑記にしたり、読んだ本のレビューをしようと思います。関心のある分野はコンピュータから宗教まで! 山口県山口市在住(出身:同県下関市)  1969年生まれ  IT部署に勤める会社員  子育て真っ最中!猫2匹同居

タグ: 死

 「メメント・モリ(Memento mori)」という言葉があります。私の中では「死を想え」という意味で理解しています。(メメント・モリ参照)

 五木寛之氏の著作でこの言葉に出会ったと記憶しています。人間はいずれ死ぬものである。また、生は死の対極に位置するものではない。死は生の延長線にある。人間は死のキャリアである。そんな言葉を思い出します。

 昨年は、職場の事務所のものが自殺をしました。しかし、その自殺の真相は闇の中で、そのコトがあったことも、原因も背景もわかりません。

 しかし、誰もが彼になる可能性はあるんです。死はすぐそこにありますし、死はたやすいことです。

 死は簡単。だからこそ生きる。人間道というのは六道という地獄の一つです。生きるということは地獄。だからこそ、魂の修行になる。そう仏教では教えています。

 ですから、多くのスピリチュアリストがいうように修行を途中で放棄することは、神の世界から見て、大きな罪になると。

 楽しく生きましょう。それが理想ですが、楽しくなくても、修行なのですから、生きましょう。途中で自ら修行を放棄するという愚を犯さないために。

 メメント・モリ

 今朝、通勤途中に嫁から携帯電話に着信。飼っていたウサギのピーター君がケージの中で死んでいたとのこと。嫁は仕事を休んで、動物霊園に。

 デジカメの写真をみると、2002年6月頃から飼っていたようです。当時は社宅に住んでいたので、小動物をということで、嫁のリクエストもあり買い始めました。ペットショップでは「ミニウサギ」として売られていましたが、実は「ミニウサギ」は品種ではなく、いわゆる雑種の通称であることは、後から知りました。

 ピーター君は、結構いろいろやらかしてくれました。普段はケージの中にいるのですが、放牧で社宅の中で運動させると、畳はかじるし、柱はかじる・・・。社宅を引っ越すときは、畳を取り替える破目に・・・。あとは放牧中におしっこをして、布のソファーを台無しにしたり・・・。

 気性もけっこう荒かったのかもしれません。ウサギはまとまったところでトイレをする習性があるのですが、トイレの破壊を何回もしました。1週間で破壊されたことも。また、餌を入れているトレーもちゃぶ台返しのようにひっくり返したり。その都度、対策をして、知恵比べをしました。

 広島から帰省するときは何日も社宅を留守にするので、ケージごと車に積んで、自分の実家や嫁の実家に帰っていました。2泊くらいまでなら、お留守番はできるのですが・・・。

 子供にとっても物心ついたときには、そばにいるような存在だったと思います。10歳になる上の子供は2歳になる前から一緒だし、6歳の子供は生まれたときからいたし。写真の中には、娘が小松菜をあげているものも残っていました。

 タイトルの「ペットの死から考える」に戻ると、ペットの死は何を与えてくれるかということです。まず、ペットを飼うというのは、楽しい反面、最後まで面倒をみるという覚悟が必要です。また、ペットをかうにはそれなりの費用も必要です。旅行に行くにも、いろいろと準備をしたり、気を使うことが多いです。それでもペットと暮らすというのは、何かがあるのでしょうね。私にとっては、小さいものをいとおしむという感情があります。子供たちには、自分より小さくて、弱いものを大切にするという心を学んで欲しいと思います。

 また、身近な人を亡くす。あるいは、死んだ人をみるという体験も少なくなってきました。私にとって、身近な死は母の死で自分が20歳の時でした。それ以外には今までありません。(もちろん、知人の訃報はありますが)
 嫁さんも祖母を亡くした体験があるだけだと思います。一緒に暮らしていたわけではないので、身近な死とは違うかも知れません。

 昨日存在していたものが、今日はない。それが”死”だと思います。その"死”に出会ったとき、「あれもしてあげればよかった」、「あれはしなければよかった」という後悔はつきものです。私はそういう後悔の感情が母の死から1年以上続きました。人によっては、深刻な心のトラブルになるときいています。

 ペットの死というのは、人の死とは違いますが、そういう彼岸を感じる時だと思います。当たり前のような昨日が、当然のように今日訪れて、明日がくる。その連続を破るのが”死”です。

 「喪の儀式」と死を受け止める気持ちの変化を表現する人がいました。肉親の死で立ち直れない人は、そのときに泣けないそうです。「喪の儀式」として、悲しむことが大切なんですね。

 2年前にも猫(ミルク)を亡くし、今回はピーター君。子供たちは、二つの死を体験したことになります。また、今も猫が2匹(クッキー、マロン)がいます。

 死んでいったミルクやピーター君を通じて、”死”の意味を知り、生きている命の短い、小さくて、弱いものから、”生”を感じ、生と死が別物ではなく、一体であることを学んでいきたいと思います。

2011年1月21日没 ピーター君 8歳
 ありがとう。そして、また会おう!
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