「これは常識だろう」という言葉で片付けるときがあれば、注意が必要だ。まず、その常識はどこの世界まで通じる常識かを考えなければならない。世界共通か民主主義共通か日本で通じることか。平安時代から未来まで普遍的かものか。20歳代から60歳代まで世代間でも共通するか。社会全体で共有されていることか、業界のみか、あるいは自社のみか。自社内でも自分の分野のみか、あるいはもっと狭く自分の課のみで通用するのか?
 このように常識というのは、一定の時間軸と社会軸を持った集団において、共通に知っているであろう知識あるいは当然知っておくべき知識である。したがって、相手と同じ集団にいるかというのが、一つのポイントである。

 もう1点。常識というのは、「当然、相手が知っているであろうという知識」であり、自分が主観的に「あろう」という想像で決めている部分がある。自分が知っているから、その集団が知っていて当然というレベルにないこともある。このあたりもおちいりやすい罠である。

 これは常識であると思い込むのは、やや危険なところがあるが、文明社会にある以上、一定の線を引くべきであろう。一つは読み書き。常用漢字は書けなくても読めなければならない。コミュニケーションは日常会話が成立する語彙は必要だろう。計算は四則演算を電卓ですることはできなければならない。
 義務教育レベルとまではいかないが、それに近いものは社会人としておさえておくべき知識だろう。
 当然、企業人であれば、ある一定レベルで選考があるのであるから、そのあたりを最低限の知識と仮定することも可能だ(やや危険)

 また、人の感情にも常識が通用しないことがある。「○○と思って当然」と自分が思っても、相手の思考回路はわからない。ましてや、自分の思考が社会から見たコモンセンスかどうかも客観的に主観で判断しなければならない。

 「常識」というのは、疑ってみる必要がある。しかし、何かの形で共通化したものを「共通の価値観」などと整理していくのが人間だろうか。